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※〔〕の中は作品中の振り仮名
解説は島田の独断であることをお許し下さい。 |
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茨島〔ばらしま〕の松の並木の街道を
われと行きし少女〔をとめ〕
才〔さい〕をたのみき
(『一握の砂』 より) |
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解説 : |
これはまさに“巣子の森”である国道4号沿いの並木を読んだ短歌です。
茨島は盛岡から渋民への通過地点で,現在の家畜改良センター岩手牧場周辺一帯を指しています。啄木は中学から盛岡に下宿していましたが,自宅のある渋民に帰る際に必ず通る馴染み深いところだったでしょう。
「われと行きし少女」というのは当時,茨島にあった岩手種馬場(現在の岩手牧場)に父親が勤めていた板垣玉代さんのことを指すのだそうです(伊東1959)。啄木が当時よく遊んでいたグループの一人で茨島や渋民までよく遊びに行ったそうです。
盛岡や渋民のことを歌った短歌が多く収められている歌集の一首であることからも,茨島の松並木が啄木にとって印象深い場所の一つであったといえるでしょう。茨島→種馬場→板垣玉代(少女) と発想されて,この歌ができたのかも知れません。
参考文献:伊東圭一郎(1959) 「人間啄木」 岩手日報社 |
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岩手山〔いはてやま〕
秋はふもとの三方〔さんぱう〕の
野に満つる虫を何〔なに〕と聴くらむ
(『一握の砂』 より) |
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解説 : |
この短歌を書いたときには啄木はすでに東京にいました。日記によれば,この短歌を書く前日(明治四十四(1908)年八月二十八日)に岩手県出身の友人金田一京助と茨島からみた岩手山の美しさについて語ったらしく,「・・・金田一君と話したりして二時頃寝た。(中略)金田一君は明朝早々の汽車で一寸帰国する。茨嶋の秋草の話虫ので泣きたい位動悸がした」と記されています。
短歌中には茨島の名称はでてきませんが,前日の話が引き金となって,この短歌を書いたと考えるのは難しくないでしょう。
茨島は三方が野原で,その野原いっぱいに虫の音が響いていた様子が窺えます。この野原の正面に岩手山が鎮座している,そういう景観であったのでしょう。
※金田一京助:盛岡出身の言語学者。啄木の盛岡中学時代の先輩。 |
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